仮面がなかったら、メキシコの田舎の祭りは一体どうなってしまうのでしょうか?
メキシコの仮面は、地域の祭りや行事の中で披露される「踊り」の中で使われました。
踊りは、物語に沿ってストーリー形式で繰り広げられます。
前回の記事(メキシコの仮面はおもしろい!⑤ 仮面をかぶると何が起こるのか?)では、仮面には、「自己を消す」、「心身ともに変身する」、そして「見えない存在を表現する」ことができるということを紹介しました。
では、踊りを見る側にとっては、踊り手が仮面をつけることにどのようなメリットがあるのでしょうか?
もしメキシコの踊りに仮面がなかったら
もし、メキシコの踊りに仮面がなかったら、一体どうなるのでしょうか?
わたしは、祭りがあまり盛り上がらないという問題が出てくるんじゃないかと思います。
演技を見る側の立場で考えてみる
踊りを見ている時、観客は踊りで表現される世界に意識を集中させています。
見る側も、物語の世界に入りこんでいるのです。
しかし、村の踊りでは、そこらへんに住む人が役を演じます。もちろん、演技初心者です。
なので、演じる側が「どれだけ心から役になりきれるか」というのがとても重要になってきます。
突然我に返ってしまうような集中の仕方では、ダメなのです。
たとえばドラマを見ている時、ロマンチックなシーンになって、とつぜん俳優が我に返って恥ずかしがり始めたら、なんか嫌ですね。
わたしたち見る側も、物語に入っていたのに、突然我に返らされるとなんだか恥ずかしくなります。
前回の記事で話したとおり、仮面には、「役にのめりこませる役割」があるので、演じる側も見る側も、お互いに目を覚まさず物語に集中できるようにする手助けができます。
「非日常」を生み出すものとは
祭りは、「非日常」を感じるためのものです。
だからこそ、みんなどうせなら極限まで非日常を味わいたい。
しかし、メキシコの踊りはたいてい土着のものなので、とても狭いコミュニティー間で行われます。
参加する人全員が、おたがいのことをよく知っている状態です。
見慣れた村で、村の狭いコミュニティーの中で非日常性を表現するには、「新しい人に来てもらう」しかありません。
なぜなら、新しい人の存在というのは、コミュニティーにものすごい「非日常性」を生み出すからです。
たとえば学園祭で考えると、お笑い芸人が来たり、他の学校の人が遊びに来ると、とても「特別」な感じがしました。
小学校のころの授業参観でも、「教室で授業を受ける」とやっていることは普段と変わらないのに、親が後ろにいるだけで教室が異空間になりました。
「新しい人の存在」は、日常を非日常に変える力を持つのです。
しかし、村には「新しい人」なんて来ません。
それに、村の大切な行事なので、村人本人がやる必要があります。
どうすればいいものか…
そんな悩みを解決してくれるのが、「仮面」でした。
たとえば、踊りを見る時、登場人物が仮面を付けていれば、その人たちはみんなが知らない存在、特別な存在…つまり「新しい人」になれます。
新しい人が踊っているから、その踊り含め祭り全体が非日常で特別な時間になります。
仮面は「既成観念」を消す道具
これがもし、仮面をしていなかったらどうでしょう。
登場人物が、例えば隣の家のホセだったら、「あ、ホセだ。」と一気に日常に戻されてしまいます。
しかもホセだけでなく、出てくる登場人物がみんな、「優しいマヌエル」、「小心者のアントニオ」、「貧乏なアンヘル」などと、自分の中で既にキャラが成立してしまっている人たちなのです。
このような既成観念は、物語の登場人物への感情移入をジャマします。
踊りの物語に集中して祭りを楽しむには、仮面の存在は必要不可欠なのです。
役がわかりやすい
また、単純に仮面を付けた方が何の役なのかわかりやすい、という利点もあります。
付けていなかった場合、「ホセがワニ役で、マヌエルが豚で、アントニオは…」と、ややこしくなります。
とくに、登場人物が多い物語では、仮面は物語の中でだれなのかを知るのに便利な目印になります。
まとめ
「仮面を使わなかった場合」を見る側の視点から考えた結果、仮面には、さらに4つの効果があることが分かりました。
- 踊りの世界に集中できるようにようになる
- 知人を知らない人に変えることができる⇒日常を非日常にする
- 物語の登場人物への感情移入を助ける
- 役をわかりやすくする
演技初心者の、知り合いの村人が役をする、という背景を考えると、仮面は祭りを盛り上げるのに、なくてはならない存在でした。
しかし、メキシコの踊りの中には、仮面を使わないところもあります。
そういうところは、コミュニティーがもう少し大きい場合や、仮面の代わりに「衣装」を着るなど、同じような効果のある道具を見に付けることが多いです。
さいごに 外国人=仮面?
ところで、数年前、わたしがメキシコのある小さな村に行った時、こんなことがありました。
夜、村で唯一のレストランで食事をしていたら、「クリスマスの行進に参加してくれない?」と声をかけられました。
その時期はクリスマスだったので、「ポサダ」という行進をするのですが、わたしの役は、なんとロバに乗って先頭をゆく「マリア様」でした。
いい思い出になったのですが、「なんで村の大切な行事の主役を、外国人にやらせたんだろう?」とずっと不思議に思っていました。
今思うと、普段は全然人が来ないあの村の人たちにとって、「外国人のわたし」というのは、すでに仮面をかぶっているのに匹敵する「非日常」の象徴だったのかもしれません。
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